※少し長い記事です。見えない世界や、
心のことに興味がある方は読んでみてください。
自分が王になるまで
王の苦しみはけっしてわからない。
そして、王は召使いになるまで
自分の召使いの謙虚さをけっして知ることはない。
また、信心深い女は、妾の立場になるまで
妾の苦労はわからない。
そして、妾の立場にある女は、信心深い女になるまで
その価値判断を知ることはない。
したがって、美徳にあふれた人生への道は、
あらゆるものを内包するものなのだ。
それは、人間の意識の中で創造されたあらゆる性質、
あらゆる状況の幻を内包している。
これこそが、最も賢く、最も高貴な存在たちが、
人類の冒険が創り出したすべての状況を生きている理由である。
彼らは売春婦であり、聖職者であった。
彼らは、グルであり農民であり、殺人者であり殺された者であり、
征服者であり征服された者であり、子どもであり親であったのだ。
あなたにもわかるはずだが、あなたが他人を非難するのは、
自分の中の受け容れることのできない側面を
他人の中に見つけるからにすぎない。
もしあなたがすべての状況をすでに生き、
そのすべてを安らかに受け容れることができているならば、
あらゆる人間を理解し、価値判断なしに
彼らをそのままでいさせてあげるのは簡単なことである。
なぜなら、あなたはすでに彼らになったことがあり、
彼らに価値判断を下せば、自分自身に
価値判断を下していることになるのを知っているからだ。
そのとき、あなたは
真の思いやりという美徳を得たのであり、
深い愛があなたの魂の中に存在するのである。
そのときあなたは、まさにひとりのキリストだ。
なぜならあなたは、さまざまな制限の中にいる
愛すべき兄弟たちを、理解し、愛し、許すことになるからだ。
「父」のすべてをそのまま愛する、
そのすべてになるということは、
「父」であるものすべてを愛することだ。
そして、「父」であるものすべてとは、
あなたのまわりにいる愛すべき兄弟たちのことである。
どのように見えようと、
あなたが自分の現実の中で神であるように、
彼らもまた彼らの現実の中で神なのである。
そして、彼らの栄光、彼らの奮闘、
彼らの悲しみと喜びをあなたがすべて生きたとき、
あなたはすべての人々の中に見える神を
抱き容れることができるのだ。
そのとき、あなたは彼らを愛することができる。
それは、世に出て彼らに教えなければならないとか、
彼らを救わなければならないということではない。
ただ単に、彼らをそのままにしておき、
彼らの必要性と意図にしたがって進化させてあげるのだ。
自分の運命が将軍になることであったり、
聖職者になることであったり、
商人になることである者たちもいる。
なぜなら、それが彼らにとって必要なことであり、
彼らがしたいことだからだ。
彼らからそれを、どうして奪い取ることができようか?
この世界にいるあらゆる者は、
植えていようと、体に障害があろうと、
農民であろうと、王であろうと、
その体験から何かを得るために、
自分の体験を選んだのだ。
その体験から学び、そこから充分に得てはじめて、
さらに別の体験へと進んでいくのであり、
その別の体験は、自分の中の中核にある自己に
さらに偉大な理解をもたらしてくれるのである。
あなたがひとりのマスターとなるとき、
制限された意識の暗闇と泥沼の中に脚を踏み入れながらも、
あなたは自分の全体性を維持することができる。
なぜなら、あなたは世にあふれる大衆のことを理解しており、
彼らがなぜそういう状態なのかを理解しているからだ。
それは、あなたもかつてはそうだったからである。
あなたは彼らに、
制限された状態でいる自由を許すわけだが、
これこそが本当の愛である。
なぜなら、そうすることが、彼らが制限のない理解を持ち、
互いに愛し合うことを学ぶことができる
ただひとつの道であることをあなたは知っているからだ。
互いに愛し合うとは、
もちろん自分自身を完全に愛することである。
そして、あなたが群衆の中のひとつの顔を見るとき、
その肌の色や清潔さや外見にかかわらず、
その存在の中に神を見るのである。
なぜなら、あなたがじっくりと見つめれば、
誰の中にも神を見いだせるからだ。
そのとき、あなたは「父」が愛するように愛している。
そして、「父」が見るものを自分自身の中だけでなく、
ほかのあらゆる者の中にも見るのだ。
あらゆる者を見て、
彼らの本当の美しさを見ることができたとき、
あなたはこの天界から、
たくさんの館があるさらに壮大な空間へと
アセンドする旅路についている。
だが、自分自身を完全に抱き容れ、
自分のまわりのあらゆる生命の中に生きる神を
抱き容れることができない者には、
その扉は閉じたままなのだ。
あなたが人々を神という本来の地位に戻し、
何をしていようとも、彼らは自分の内なる神のために
生きていることを知るとき(これは、あなたが
自分の内なる神のために生きているのと同じだが)、
あなたはすべての人々を愛することを学ぶことができる。
彼らの表現がどんなものであろうと、
これまでの存在ではじめて、
あなたは本当の意味で彼らを愛することができるのだ。
というのも、あなたの愛は
価値判断によって制限されたり、
抑制されたりするものではないからだ。
そして、これがまさに、キリスト、
すなわち「神として生きる人間」の内面のあり方なのである。
——————『ラムサ ホワイトブック』より
昨日はよく晴れて、桜がとても綺麗でした。
こういう気持ちが穏やかな時に、
道ですれ違う人の中に「神」を感じてみる。
「この人もあの人も、みんな神なんだ」
公園に座って桜を眺めている人、立ち話をしている女性たち、
杖をついて歩いている人、色んな国の人たち、
自転車に乗る学生、スーパーの店員さん、木や花・・・。
「みんな、それぞれの表現をしている神なんだ」
そう思っていつもの道を歩いたら、
心が静かに満たされました。
「父」とは愛である。そして「父」は審判を下さない。
「父」は善悪を持っていない。プラスもマイナスも持っていない。
「父」はただ存在する「在ること」である。
そしてその「在ること」は、
すべての人々、すべての行為、すべての思考、
すべての感情、すべての物を内包している。
もし「父」があなたに審判を下すようなことがあれば、
「父」は間違いなく自分自身に対して審判を下していることになる。
なぜなら、あなたと「父」はひとつであり、
同じものだからだ。
善悪や決めつけなどの制限された目で誰かを見ることは、
自分の中の「神」を制限することになる。
「この人は今、こういう表現をしている神なんだ」
日常には心が乱れることも多々ありますが、
できるだけ制限の無いクリアな目で、
人や物事を見ようと思いました。
それが今の私の理想です。