昨日はちょっと重たい内容になってしまいました。
ウチの奥さん曰く、
昨日の記事を書いている時の私は、
難しい顔をしていたそうです(汗)
あまり楽しくなかった記憶を辿ると、
自然に険しい顔になってしまうんですね。
このことに付随してなんですが。
よく過去に戻って自分の心的トラウマの源泉を探したり、
心の癖を改善していくようなセラピーがありますね。
私は全然戻らなくてもいいと考えています。
なぜなら、心のキズが癒えていない時に
辛い過去を思い出すのはしんどいですもん。
そういう辛いことをしなくても、
「今の自分」を肯定できたら
もうそれだけで人生が変わっていきます。
「今の自分をそのまんまでオッケー」にする。
だらしない自分も、
立ち止まっている自分も、
迷っている自分も、
引きこもっている自分も、
キレやすい自分も、
卑屈な自分も、
飽きっぽい自分も、
絶望している自分も、
不幸な自分も、
病気の自分も、
全部オッケーにする。
オッケーにして、そこから歩き始めたらいい。
いや・・・「歩き始める」と言うと、
「行動」のイメージにつながっちゃうから、
ちょっと違いますね。
つまり、いきなり「意味のある行動」に走るのではなくて、
今の自分を「丸ごとオッケー」にしてから、
自分の気分が良くなることをしたり、
ホッとしたり気分が楽になる考え方をするだけでいいんです。
このことについては過去の記事にも何度か書きました。
一旦、自分が問題だと感じていることを脇に置いといて、
全然関係のない好きなことや楽しいことをするんです。
あと、考え方を変える場合。
例えば、誰かの言動で傷ついたり苦しんでいる時なんかは、
まずは「あいつが悪い!」でいいんです。
「自分が悪いのだろうか?」ってなると、
途端に自分を責めたり反省したり自己嫌悪が始まりますから、
最初は「クソ!」でも「むかつく!」でもいいんです。
それと、親だから「尊敬しなきゃいけない」とか、
「世話になったから」とか言って無理して我慢して、
自分のネガティブな気持ちに蓋をしなくてもいい。
ウチに来られるお客さまの中にも
時々そういう方がおられるのですが、
その人の心のタイミングが合えばこうお伝えしています。
「そういう時は遠慮なく、
『クソばばあ!』『クソじじい!』と思っていいですよ」って。
もちろん、舅さんや姑さんにもこれでオッケー。
そう感じている自分に嘘をつかなくていいんです。
・・・なんかね、昨日と今日の記事からいくと、
私は相当親が嫌いみたいに思われるかもしれませんが、
そんなことはないんです。
本当に(笑)
なんでこういうことをしつこく書くのかと言うと、
自分が大なり小なりコントロールされて育っていて、
その影響が今の思考パターンに刷り込まれていると
自覚する必要があるからなんです。
「自分のことだけ考えて生きたらダメですよ。
誰かの期待に応えたり、
周りのみんなに合わせなきゃいけないよ」
両親だけでなく、教師を含めた色んな大人、
もっと言えば社会全体から、
「自由に生きてはいけません。
自己中心的に生きてはいけません」
と、教えられて育っている。
私たちに教えた人も先人にそう教えられて育っているから、
誰が悪いとかじゃないんです。
ただ、このことを前提として知っておく必要がある。
常に誰かの期待に応えようとする自分。
自分の人生の主役じゃなくて、
誰かの人生の脇役を必死で演じようとする自分。
「家族のために稼がなければ」とか、
「家族のためにちゃんと子育てや家事をしなきゃ」とか、
「親を喜ばせるために勉強をがんばる」とか。
行動原理が「自分のため」じゃなくて、
大抵は「誰かや何かのため」になっている。
だから、人生が息苦しい。
「誰かや何かのため」に行動する人生が息苦しいから、
世の中や政治家や家族や誰かのせいにして責めたくなる。
私を含めた多くの人にそういう癖がついています。
そして、この癖の困ったところは、
自分が誰かの期待に応える癖がついているものだからって、
「他の誰かも自分の期待に応えるのが当たり前」
という思考パターンにはまってしまうことです。
言い換えると、自分のドラマの脇役を
当たり前のように誰かに演じさせようとする。
一種のコントロールですね。
でも、「自分は誰かを喜ばせるために生きているんじゃない」と
みんな芯の部分では知っているので、
当の誰かはあなたの期待に応えることが長続きしない。
やがて、「期待に応えてくれない(=上手く脇役を演じてくれない)」が、
不満や失望、時には怒りにも変わる。
「もっと自分に気を使ってくれよ、労ってくれよ。
誰の金で食えてると思ってるんだ」とか、
「キレイに掃除しても誰も気づいてくれない。
喜びもしないしお礼も言ってくれない」とか、
「勉強も部活もこんなにがんばったのに褒めてくれない」とか。
あとは、誰かの期待に合わせない人を見ると、
「なんで人に合わせないの?」
「空気読まないの?」
「自分よりも家族を大切にするのが当たり前でしょ?」
「自己チューやな」
と許せなくなる。
これはもう無意識のレベルと言っていいぐらい、
かなり深いところにある心の癖だと思います。
この癖はほとんどの人が持っているかもしれません。
「誰かのために」「誰かを喜ばせる」「誰かに配慮する」
「誰かに合わせる」「誰かについていく」は、
ある種の「杖」のようなもで、
この杖を外すと歩けなくなってしまう人もいます。
つまり、その杖を外した時、
「今この瞬間、自分は何をしたいのか?」がわからなくなる。
・・・ここで、やっと最初の話に戻ります。
この「脇役を演じる癖」と「脇役を演じさせる癖」を捨てて、
自分のドラマの主役を演じる(=真に自分の人生を生きる!!)ためには、
自己肯定や自己受容が必要不可欠なのです。
なぜ必要不可欠なのかと言うと、
自己嫌悪や自己否定をしていると、
自分が感じていることを信じられなくなるから。
(嫌いな人の言うことを信じないのと同じです)
自分が「今」感じていること。
中から湧いてきている正直な気持ち。
この一番大切な「指針」を信じずに、
誰かの言うことだけを信じてそれに合わせるようになる。
本当は面白くもないのにみんなに合わせて笑ったり、
自分は行きたくないのに仕方なく行ったり、
好きでもないものを好きなふりをしたり、
持ちたくないものを持ったり。
「自分ってどんな人なのか?」
「自分はどこへ行けばいいのか?」
親、友人、権威のある人、成功者、霊能者、占い師、宗教家に聞いて、
それらの人から言われたことを信じて選択するようになる。
そうやって生きていると、
どんどん自分主役のドラマがおかしくなっていく。
だからですね、
自己否定や自己嫌悪をするぐらいなら、
「ばかやろー!」「あいつが悪い」でオッケーなんです。
そこから「私、このままでいいや〜」という気持ちになると安心します。
そこまで行ったらしめたもの。
あとは、ホッとしたり気持ちが楽になる思考を繰り返せばいい。
そうすると、よく引用しているこの感情の段階が、
自分の本質へとどんどん上がっていきます。
『新訳 願えば、かなう エイブラハムの教え』より。
1 喜び/気づき/力があるという感覚/自由/愛/感謝
2 情熱
3 熱意/意欲/幸福
4 前向きな期待/信念
5 楽観的な姿勢
6 希望
7 満足
8 退屈
9 悲観的な姿勢
10 不満ストレス/苛立ち/短気
11 打ちのめされている状態
12 失望
13 疑い
14 心配
15 非難
16 落胆
17 怒り
18 復讐心
19 嫌悪/憤り
20 嫉妬
21 不安/罪悪感/自信喪失
22 恐れ/悲しみ/うつ状態/絶望/無力感
今の私の日々は、その繰り返しです。
徐々にですが、自分の存在状態がどんなでも、
自分そのものをオッケーにできるようになってきました。
そうすると何が起こるのかと言うと、
自分が「今」感じていることを信じられるようになります。
自分の感情に正直になります。
自分に優しくなります。
自分の気分を最優先して物事を決断するようになります。
自分に入れる情報を自分で選択するようになります。
自分の機嫌を自分で取れるようになります。
世の中や人や物事について、
自分好みの面だけを見るようになります。
自己中心的になります。
自分以外の誰かに意図を持った期待をしなくなります。
全員が自分の人生の主役で、
人生を自由に創造できる力を全員が持っていることを知っているから、
自分以外の誰かがどんな存在状態でも気にならなくなります。
誰かが自分に意図を持った期待をしても、
自分の気分を最優先するので、
それにはあまり反応しなくなります。
人生に自由を感じられるようになります。
人生を信じられるようになります。
今日も長くなってしまいまいした。
最後までお付き合いくださってありがとうございます。