パソコン好きのふくさん
- 2017.07.29 Saturday
- 我が家の鳥さん
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- by 白樺整体院
時々、木に触れます。
施術をする時の要領で、
ただそっと触れて木の動きを感じます。
最近は裸足になって触れることが多いので、
足にも根っこの存在を感じます。
触れながら幹を見てみると、
手が届くところにセミが何匹もいる。
「あれ?・・・セミって、こんなに近くにいたっけ?」
子供の頃を思い出してみる。
私はあまり虫が好きではなかったので、
セミやカブト虫を捕りに行ったという記憶が薄い。
その薄〜い記憶をたどってみると、
長い柄がついた虫捕りアミを
高い枝に向かって振り回していたような気がします。
が、なんせ薄い記憶なので定かではありません。
手が届くところにセミがいる現実に
大いに驚いた次第です。
子供の頃の夏といえば海です。
当時住んでいたのは海に割と近い所だったので、
両親や親戚によく連れて行ってもらいました。
今も夏場は黒いのですが、
子供の頃の私は桁違いの「黒」でした。
「インド人もびっくり」
「夜はどこにいるかわからん」
と言われる黒さでした。
ある日、白と黒の縞模様の海パンを履いたら、
お尻が縞模様に焼けたことがあって。
白と黒でこんなに焼け方が変わるんだと驚いたものです。
ちなみに、縞模様に日焼けしたお尻が恥ずかしかったので、
その海パンはもう履かなくなりました。
奈良に住んでいる今となっては、
海に触れる機会はほぼなくなりました。
施術室で海の音を聴くぐらいですね。
過去のことを思い出したついでに、
「後悔」について少し。
「後悔の気持ちをどうしたらいいか?」と
聞かれたことがあります。
「過去の間違いについて、ついつい考えてしまう」
「考えても消化できないくせに」
「わかっちゃいるのにやめられない」
過去に戻って変えられるものは一つもないので、
「後悔」とは行き場のない感情ですね。
こういう時、今の私ならこうします。
後悔している自分を否定すると
「本当の自分」から最も遠ざかってしまうので、
後悔の念から離れられない自分をまず受け入れる。
「ああすれば良かったんだろうか、
こうすれば良かったんだろうか・・・」
はい。
後悔しているそのままでオッケーです。
そのまんまの自分で、
何か他のことをして気を紛らわせましょう。
好きなことや楽しいこと、
気持ちがホッとすることをする。
「今はとてもそんな気にならない」
そういう場合には、仕事や家事、
運動などに没頭してもいいです。
ストイックな人は、
何か修行的な行為をするのもいいですね。
写経とか、山登りとか。
とにかく、
後悔の気持ちをすぐに消そうとしたり、
問題の解決を急がないことをおすすめします。
「何をどこで間違ったんだろう?」
「もしも、あの時こうしていたら?」
後悔の念にさいなまれている時に、
問題を掘り下げるのはあまりおすすめしません。
その思考の先に待っているのは、
自己否定や自己嫌悪だからです。
この話題に関連して、もしも自分に
過去世の記憶が全てあったら?と想像してみました。
今よりも未熟な自分が、
過去に経験した幾つもの人生の中で
一体どんなことをしてきたのか・・・
想像するだけでも怖ろしい。
きっと、後悔の念で自我が崩壊してしまうでしょう。
前世の記憶がなくて良かったなぁと思います。
「セミだらけ」から話がずいぶん飛びましたが、
今日はこのへんで。
約1ヶ月前、大正15年生まれの叔母が他界しました。
全身にガンが転移した状態で何年も生きた叔母は、
私の存在や施術を高く評価してくれた人でもありました。
これは、私の母親から聞いた話です。
自宅で最期の時を迎える3日前のこと。
看護師さん立ち会いの元で、
「もうこれで最期だろう」
という時が訪れたそうです。
その時、母親の口から咄嗟に出たのが賛美歌でした。
♪栄光〜栄光〜イエスにあれ〜
クリスチャンで賛美歌が大好きだった叔母は、
妹の声を聴いて両手を挙げ、息を吹き返したそうです。
その奇跡の3日後。
賛美歌が流れ続ける部屋の中で、
彼女は静かに息を引き取りました。
彼女の賛美歌に対する思いが、
身体の中に僅かに残っていた
生命力を呼び覚ましたのだと思います。
その思いは「心地よさ」や「好き」という感情でもあり、
「神やイエス・キリストとのつながり」でもあったのでしょう。
彼女が旅立った日は、
同じくクリスチャンだった彼女の息子さん(私の従兄弟)が
10年前に旅立った日でもありました。
私が知っている男性はある宗教に信心し、
そこの念仏を毎日唱えるようになってから、
発作で倒れることがなくなったそうです。
その男性が念仏を唱えている時の感情は、
きっと「期待」や「希望」だったのでしょう。
そこに「疑い」や「不安」が入らなかったから、
身体が健康を取り戻し始めたのだと思います。
お百度詣りやお遍路で願いが叶うのも同じですね。
何度も何度も同じことを願ったり、
長距離を黙々と歩いて幾つものお寺を巡拝すると、
人によっては一種の瞑想状態に入ります。
瞑想状態は、ソースエネルギーが
身体に流れるのを許可している状態でもあります。
そうすると、願いに対する疑念がどんどん薄くなって、
最初は「淡い希望」だったものが
やがて「期待」や「信念」に変わっていく。
そして、望み通りのことが起こる。
観たい番組にチャンネルを合わせるように、
思考と感情(特に重要なのが感情です)を
どのチャンネルに合わせるかで、
自分が体験する現実が変わります。
そのチャンネルが、見えない世界の自分である
ソースエネルギーの波動に合った時や近づいた時、
身体に良い変化が起こったり、願いが叶ったり、
好みの現実が目の前に現れたりする。
なぜならソースエネルギーとは、
健全、愛、幸福、光そのものだから。
叔母が生命力を吹き返し、
男性に発作が起こらなくなったのも、
チャンネルをソースの波動に近づけたから。
自分が宇宙に対してどんなエネルギーを発信しているか?
リモコンをどのチャンネルに合わせているか?
信心している教義も、祈る対象も、祈る方法も、
賛美歌でもお経でも歌謡曲でもなんでもいい。
重要なのは、その人がどんな感情でそれを行っているかです。
斎藤一人さんは、
新しい商品を開発する時の方法を
このように仰っていました。
「こういう商品が欲しいなぁ」と念じたら、
あとは毎日を楽しく過ごすだけだと。
そしたらある日、
「ポン!」とアイデアが出てくる。
コツは、毎日を機嫌良く過ごすこと。
アイデアが出てくるまでに苦しんだら、
商品に苦しみが入ったり売るのに苦しむんだそうです。
一人さんがやっていることも同じですね。
ただ、自分の感情を
ソースの波動に合わせ続けるだけ。
エイブラハム流に言うと、
「ヴォルテックスに入り続ける」だけ。
それは、気持ちが楽になったり、
疑いがようのない「いい気分」の中にいること。
「ただそれだけなんだ」
ということが少しずつ理解できている今日この頃です。
「身につけるものや車にこだわるように、
自分の気分もこだわって選びなさい」
エイブラハムはそう言っていました。
確かにそうですね。
服や靴、アクセサリーなんかは
「今日はどれにしよう」とこだわって選ぶのに、
一番大切な自分の気分に関しては、
私たち自身で選ぼうとしませんね。
怖い事件を知ったら「不安」に思い、
横柄な人に会ったら「ムカつく」と思う。
優しくされたら「喜び」、
褒められたら「いい気分」になる。
・・・という風に、自分の気分は
外的な要因に反応することで決まってしまう。
というか決められてしまう。
それはまるで海に漂うコルクのようで、
全ては海や天気の状況次第。
自分では何もコントロールできず、
ただ流されるままになってしまいます。
それが人生?
いえいえ。
エイブラハムは「現実は自分で創造できる」と言い、
私たちはそもそもそのためにここへやって来ました。
以前の記事にも書いたように、
私たちの本質である「ソースエネルギー」の波動に
自分のチャンネルを合わせておけば、
望み通りの人生を送れるようになります。
そのチャンネルは何かというと、
私たちの感情や気分です。
もちろん明確な思考も
チャンネルを合わせる力は大いにあります。
「思考が現実を創る」といいますから。
でも、「明確な思考」って難しいです。
だから、思考よりも
感情や気分にフォーカスする方が楽ですね。
まず、「今日1日どういう気分でいたいか?」を決める。
布団から起き上がる前に、
しばらくそのことを思ってから1日をスタートする。
私なら「いい気分でいたい」
「自分が見たいものを見たい」
「仕事と生活に喜びを感じたい」などです。
あとは生活の節目ごとにその意図を明確にする。
電車やバスに乗る前、
車に乗る前、
家事をする前、
会社や学校に着く前、
人と会う前、
電話に出る前など。
どういう気分を持ちたいかを決めてから行動する。
「今日はいい気分でいたい」
「電車に乗っている間、快適に過ごしたい」
「段取り良く短時間で掃除を終わらせたい」
「気持ちよく料理をして美味しい夕飯をつくりたい」
「今日の仕事に喜びを感じたい」
「お互いにとって有意義な会話を持ちたい」
「どこにいても何をしていても、
自分の心がワクワク躍るようなことを探そう」
出かける前に好みの洋服を選ぶように、
何かを行う前に「好みの気分」を選んでおくと、
そういう出来事が起こりやすくなります。
しかし、どうしても
好みの気分を選べない時があります。
例えば、苦手な人や嫌いな人に会う時、
必ず緊張してしまう場面に立つ時、
そもそも学校や職場が嫌いな時、
身体の不調や痛みを感じる時など。
これはHappyさんがDVDの中で言っていたことですが、
そういう時はネガティブな気分になってしまう自分を否定せず、
「大丈夫、大丈夫」と自分で自分を抱きしめてあげる。
ムカついてもいいし、
不安になってもいいし、
嫌いなままでもいいし、
苦しんだままでもいい。
そういう気分を感じている
そのまんまの自分を一切否定しない。
感情はソースとのズレをお知らせしてくれる
ただのサイン。
だから、それを感じている自分でオールオッケー。
「このまま感じていてオッケー」と思うその状態は、
感情のエネルギー的にはニュートラル。
「このままの感情でええやん」と思い続けたら、
やがてはその感情が「安心」へと変わります。
「ネガティブになったらアカン」
「このままだと、引き寄せの法則で
未来に望まない現実が創造されてしまう」
「気持ちを早く切り変えないと」
逆に、こういう思考をしてしまうと、
「自己否定」「不安」「焦り」「恐れ」
などの感情が湧き出します。
以前の記事にも書きましたが、
これらの感情は私たちの本質である
ソースエネルギーの波動から最も遠ざかるもの。
「ネガティブなままでええやん」
この思考は最悪かもしれませんが、
感情はソースに近いものが生まれています。
ソースに近い感情に居続ければ、
やがてその場所から「Want」の気持ちが
自然に生まれてきます。
私も「ネガティブな気分になった自分」を
半ば無意識的に否定してしまう方なんで、
このHappyさんの言葉には救われました。
彼女はさすがですね。
節目ごとに自分が感じたい気分を選ぶ。
ネガティブな気分をコントロールできない時は、
ジタバタせずにそのままの自分を抱きしめてあげる。
もし可能であれば、そこから思考を転換する。
転換できない時は無理をせず
(つまりその問題は置いといて)、
他の好きなことやホッとすることをして
感情のグレードをソースに近づける。
「好みの気分を選ぶこと」=「好みの人生を選ぶこと」
エイブラハムの教えを実践して4ヶ月ほど。
私の生活は基本静かなものですが、
その静けさの中に少しずつ
変化が現れてきたような気がしています。
最後に、エイブラハムの言葉を。
何かについてネガティブな感情を持っているなら、
それと闘って今すぐに解決しようと思わないほうがいい。
ネガティブな関心は事態を悪化させるだけだから。
その考えから自分を引き離して、
明るくていい気分になりなさい。
それから前向きの新たな視点から
もう一度取り組むこと。
————『お金と引き寄せの法則』より
「裸足で草の上を歩くといいよ」
そう友人からすすめられて、早速歩いてみました。
今日のように太陽がカンカン照りの日でも、
草の上はひんやりとした感触。
土の上もそんなに熱くない。
こんなにふわふわでひんやりなら、
ずっと歩いていたい感じ。
逆に、アスファルトや石の上は灼熱地獄でした。
いつも裸足感覚の靴やサンダルを履いていますが、
裸足の心地よさにはかないませんね。
鹿の落とし物に気をつけながら、
また歩きたいと思います。
奈良のタウン誌『マイ奈良』の
8月号に原稿を書きました。
「セルフ・ストレッチ」という連載の14回目です。
今回の内容は、首の体操について。
『マイ奈良』は奈良の書店で販売されている他、
奈良の一部地域の朝日新聞購読者にも配布されています。
カフェやショップにも置かれていますので、
興味がある方は手に取ってみてください。
その喫茶店へ行くのは約1カ月ぶりで、
なんとなくその日は行こうと思いました。
今日が誕生日だと言うママさんの笑顔を見て、
我ながらいい流れに乗っていることを実感しました。
年を取ることを歓迎しない方は多いと思いますが、
実は「年を取る=老ける・衰える」ではありません。
細胞は、そのようにはプログラムされていません。
体内に何十兆個もある全ての細胞には意識があって、
それらは常に「健全」へのバランスを保とうとしています。
その働きを後押しするのが、
笑い、喜び、自信、安心、希望、
情熱、幸せ、感謝、愛などの感情。
逆にその働きを妨げるのが、
心配、恐れ、いらだち、怒り、
嫉妬、自己卑下、苦悩、無力感などの感情。
では、なぜ多くの人が年齢と共に老け込み、
身体機能も低下していくのか。
それは、細胞の自然な働きを妨げる感情を、
周りの環境に反応して感じるままに野放しにしていて、
細胞に行くべきエネルギーの流れを
長年に渡って滞らせてしまったから。
そして、「人は年齢とともに必ず老け込むものだ」
「身体の機能も衰えていくものだ」と、
周囲のそうなっている沢山の例を見て、
それを自分の信念にしてしまったから。
(信念とは、考え続けている思考のこと)
例え周りの環境がどうであっても、
それにネガティブな反応をし続けない。
思考と感情がネガティブになった時には、
細胞の働きを後押しするポジティブな思考や
感情になることを意識して行う。
ホッとしたり、安心すること考えたり行う。
そうすれば、身体はずっと元気でいられます。
あとは「自分の身体と他人の身体は違う」
ということを知っておくと、
同年代の人が老けていても衰えていても
「大丈夫!」と安心できます。
「ここのところ悩むことがほとんどない」と言うママさん。
どうりで元気なわけです。
私も彼女を見習おうと思いました。
今日は、私がいつも履いている
ビブラムファイブフィンガーズの補修について。
昨年の冬、Barefootinc Japanのポップアップショップで、
「SPYRIDON MR」というモデルを買いました。
セールの値段に惹かれ、
いつも履いている42インチのサイズを試着してみると、
足指を反らした時に右薬指だけが当たる。
「どうしようかなぁ、43インチだとでかいし・・・」
(今思えば、大き目の方が正解でした)
迷いに迷った挙句、
やはりセールの値段に惹かれて購入。
しかし、日常生活で使ってみると、
歩く度に右薬指が当たって痛い。
「何日か歩いていたら、靴が伸びて馴染むだろう」
なんて淡い期待も叶わず。
これは伸ばすしかない!
靴の修理屋さんに電話をしてみると、
予想通り「5本指は無理です」との返事。
自力で伸ばすことにしました。
まずは原始的に。
右薬指が入る部分に手頃な棒を突っ込み、
石油ストーブの前で熱しながら伸ばす。
これはほとんど伸びませんでした。
普通の靴でも1週間ぐらい
器具を入れて伸ばし続けるわけだから、
ストーブで10分やそこら伸ばすだけでは、
そら無理ですわな。
と、冷静に考えてみたらわかるのに、
「実際にやってみなけりゃわからん」
という愚かさが私にはあります。
要は、長期間伸ばしておく器具があればいい。
そうか。
5本指型の靴伸ばしの器具なんてないけど、
普通の靴伸ばしならウチにある。
試しに、その器具を靴の中に入れてみたら、
指までの範囲に収まる。
よし。
あとは、指の部分に入る短い棒があればいい。
最初は消しゴムを適当にカットして入れてみる。
が、これは柔らかすぎてソールを伸ばす程の力がありません。
もうちょっと硬いもので、なんかないかな。
文房具が入っている引き出しなどを探していると、
ちょうど良いものが見つかりました。
木工ボンドのキャップ。
あの赤いプラスティック製のやつです。
よし、これでいこ。
靴の右薬指が入る部分にキャップを入れ、
靴伸ばしの器具をはめこんだら、
器具についているハンドルで限界まで伸ばす。
日ごとにハンドルを操作して少しずつ伸ばす。
そんな姿を見ていたウチの奥さん。
「新しいの買うたら」
・・・確かに(涙)
そうして1週間。
試しに履いてみると薬指の部分が少し伸びていました。
念押しにもう1週間。
更に履きやすくなりました。
今は少し当たるぐらいで普通に履けています。
もうちょっと伸ばそうかなぁと思案中です。
ただ、この方法は靴全体を伸ばすやり方ではないので、
甲の部分の布地が不均等に伸びます。
見た目にはちょっとシワが増えました。
あとは、ソールのゴムも不均等に伸ばされているので、
耐久性に影響があるかもしれません。
(試される場合は、あくまでも自己責任でお願いします)
ちなみに、ソールが磨耗したり、
指と指の間の生地が小石などで傷んだ時には、
「シューグー」で補修しています。
この商品は本当に便利です。
ビブラムファイブフィンガーズを履いたおかげで、
私の足の薬指は「左よりも右の方が長い」ことを知れました。
40年以上この身体を使ってきましたが、
まだまだ知らないことがあるでしょうね。