ある日の風景
- 2016.07.27 Wednesday
- くらし
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- by 白樺整体院
この間の記事でご紹介した、小林正観さんの著書
『この世の悩みがゼロになる』の中にこういう言葉がありました。
悟りとは受け入れること。
受け入れるためには3秒あればよいのです。
1秒目、過去のすべてを受け入れること。
2秒目、現在のすべてを受け入れること。
3秒目、未来のすべてを受け入れること。
受け入れることが悟ること。
過去の失敗、恥ずかしかったこと、辛かったこと、痛かったこと、
腹が立ったこと、死ぬほど苦しかったこと、
身を切られるぐらい悲しかったことを受け入れる。
容姿に不満があったって、能力に不満があったって、
家族に不満があったって、仕事に不満があったって、
今の自分の境遇をまるごと受け入れる。
そして、過去と現在を受け入れられるようになったら、
未来に起こることも受け入れられるようになります。
なぜなら、未来とは、過去と現在の集積(=結果)だから。
ルイーズ・L・ヘイさんの著書『ライフヒーリング』より。
これまで何百人にも実践してもらいましたが、
驚くべき結果が出ています。
これから1ヶ月間は「私は自分を受け入れます」と言い続けてください。
毎日300〜400回は繰り返しましょう。
そんなに多くの回数ではありませんよ。
悩んでいる時は、その問題についてそのくらい考えているはずです。
「私は自分を受け入れます」を歩くマントラ(呪文)にしましょう。
間髪を入れないくらい、繰り返し繰り返し自分に言い聞かせるのです。
「私は自分を受け入れます、
私は自分を受け入れます、
私は自分を受け入れます」
何が起ころうとも、誰が何と言おうとも、
あなたに何をしても、続けて唱えるのです。
実際には、あなたが受けつけないことを
誰かがしている時に唱えられれば、進歩したことになります。
ー中略ー
内面の思考には、屈しないかぎり支配されません。
思考とは言葉をつなぎあわせたものにすぎません。
それ自体何ら意味をなさないのです。
私たちが価値を与えているだけなのです。
ー中略ー
私たちはそれぞれ違う人間です。
私たちは異なるようにできているのです。
このことを受け入れられるようになれば、
競争や比較などなくなります。
他人と同じであろうとすると魂が縮むのです。
私たちがこの世にいるのは、
自分という存在を表現するためです。
自分の人生をまるごと受け入れた先に悟りがある。
では、悟ったらどうなるのか?
これは私の勝手な想像ですが、
悟った人というのは問題が起きてもそんなに悩まない。
なぜなら、自分の過去も現在も未来も既に受け入れているから。
だから、問題自体を恐れなくなります。
同時に「この先に問題が起こるんじゃないだろうか?」
という未来への漠然とした不安もなくなくなります。
つまり、悟ると人生を豊かに生きられるようになる。
「私は自分を受け入れます」
新たな気持ちで、今日からまたこの言葉を唱えたいと思います。
●ご来院前、どのような症状が気になっていましたか?
交通事故の後遺症と産後のダメージ。
●当院を知ったキッカケは何ですか?
産院の助産師さんの紹介。
●当院を知ってからすぐに来院されましたか?
もし迷ったとしたらどんな点ですか?
近所なのですぐ。
●当院を選んだ決め手は何ですか?
また、通ってみようと思った決め手は何ですか?
近所で、体の負荷が少なかったので。
●実際に当院の施術を受けてみていかがでしたか?
来た後のもみかえしやつかれがなかった。
足のしびれがすぐとれた。
強くしないので疲れている時に受けやすい。
(女性 30代 ぺんしる様)
ー白樺整体院よりー
ありがとうございました。
20代の頃に車に衝突され、
顎、肩甲骨、肋骨、骨盤などに大きな外傷を受け、
その後PTSDにもなられたそうです。
主訴は出産後の骨盤の痛みと右脚のしびれでした。
1回目の施術の後、1週間ぐらい経つと右脚のしびれがなくなり、
2回目の施術の後で産後の骨盤の不調が治まったそうです。
「病変を追うのではなく、身体の中にある健全に働きかける」
こういう方の力になれるのがオステオパシーの素晴らしいところです。
ぺんしるさんの場合は、日々の疲れが溜まる前に
定期的にお身体のケアをしていくことをおすすめします。
またお待ちしております。
●ご来院前、どのような症状が気になっていましたか?
首・肩周り全体の張り、痛み。
●当院を知ったキッカケは何ですか?
知人からの紹介。
●当院を知ってからすぐに来院されましたか?
もし迷ったとしたらどんな点ですか?
紹介されてから、すぐの来院でした。
●当院を選んだ決め手は何ですか?
また、通ってみようと思った決め手は何ですか?
知人からの評判が良かったため。
●実際に当院の施術を受けてみていかがでしたか?
以前、整骨院に通院していたときは、通院後しばらくすると、
症状が元通りに出てしまっていたのですが、
今は1か月経っても痛みが出ることがなく助かっています。
“痛いから通う。”→“ちょっとほぐしてもらう。”に
来院の目的が変わってきています。
(男性 20代 T様)
ー白樺整体院よりー
ありがとうございました。
慢性的な肩こりで、時々頭痛にもなるというTさん。
痛みが我慢できない時にはロキソニンを服用されていたそうです。
1回目の施術では、骨盤と横隔膜の調整を行いました。
その1週間後に2回目の施術。
肩周辺の可動域を広げた後に頚椎を調整しました。
あと、お酒をよく飲まれるということなので内臓のバランスも整えました。
それから1ヶ月後。
3回目の施術を受けに来られた時に症状をお聞きすると、
調子良く過ごせているとのこと。
Tさんの回復力は素晴らしいですね。
ただし、症状がなくても体操は続けてくださいね。
またお待ちしております。
奈良のタウン誌『マイ奈良』の
8月号に原稿を書きました。
「セルフ・ストレッチ」という不定期連載の10回目!
年に数回の連載で、やっと10回に達しました。
記念すべき10回目の内容は、蒸しタオルを使った健康法です。
ここ数日、鼻がグズグズして調子が悪かったのですが、
顔と首に蒸しタオルをしたら鼻と頭がスッキリしました。
暑い夏に、熱々の蒸しタオル。
これが結構気持ちいいんです。
オススメですよ。
『マイ奈良』は奈良の書店で販売されている他、
カフェやショップにも置かれていますので、
興味がある方は手に取ってみてください。
少し前に施術を受けた時のこと。
自分の身体の変化を静かに感じながら施術を受けていたら、
言葉がポンと浮かんできました。
「お前が全部解決しなくていい。
お前は救世主じゃない」
その時、私には悩んでいることがありました。
考えても考えても解決できないことがあって、
頭の中がモヤモヤしていました。
でも、冷静に考えてみると、
そのことは私が解決すべき問題ではありませんでした。
つまり、人の問題を私が解決しようとして、
「ああでもない、こうでもない」と悩んでいたわけです。
言葉が浮かんだ途端、思わず笑ってしまいました。
もちろん心の中でですよ。
人って、笑えると楽になるもんですね。
人は時々、誰かが解決すべき問題を自分が解決しようとして、
ぐっと悩んでしまいます。
特に身内の問題だとこれが出やすいですね。
「ウチの娘(息子)を結婚させたい」
「子供の就職を決めてやりたい」
「両親の仲を良くしたい」
あと、私の様な仕事をしている人の場合だと、
クライアントの悩みを解決しようとして、
自分が苦しくなってしまうこともあります。
悩んでいる自分にこう聞いてみましょう。
「それって、誰の問題ですか?
あなたが解決するべき問題ですか?」
ちょっと考えてみて、「あはは」と笑えたり、
アホらしくなってきたら、きっともう大丈夫です。
「身体が自由になると、心も自由になる」
良い体験をしました。
たまには施術を受ける側になるのもいいですね。
出来上がりました!!
白樺整体院新聞15号です。
20日頃に届く予定が、嬉しい誤算で、
印刷屋さんが超特急で仕上げてくださいました。
ありがとうございます。
左にあるのは14号です。
中はこんな感じ。
白樺整体院新聞は、
JR奈良駅横の奈良市総合観光案内所と、
奈良市観光センターにも置かせていただいています。
あと、白樺整体院の門のところにも置いていますので、
興味がある方はぜひ手に取ってみてください。
小林正観さんの著書『この世の悩みがゼロになる』より。
私がオセロゲームについて思うのは
(教えられるのは)、次のようなことです。
「私」が「幸せ」であったかどうか、
自分の今までの人生すべてを「幸せだった」と思えるかどうかは、
「今日」が決めるということ。
もし仮に、今日、「ああ、私は幸せ」と思ったとします。
そうすると、昨日まで体験した”イヤなこと”、
例えば失恋とか、倒産とか、受験の失敗、病気や事故なども、
すべてが「今日の幸せ」に至るための「原因であった」、とわかるのです。
逆に、「ああ。私ほど不幸な人はいない」と、”今日”思ったとしましょう。
そうすると、昨日までのすべての過去、すべての出来事がみな、
「不幸」の「原因」になってしまうのです。
不幸の原因となったそれまでの出来事はみな”不幸”に思えてしまいます。
「あれがなかったら」「あんなことが起きなければ」と、
一つひとつの出来事が恨みの、苦しみの対象になってしまう。
しかし、今日、「私は不幸だ」、「私ほど不幸な人はいない」
と思っていた人でも、日が変わったり、翌日になって、宝くじが当たったり、
憎いと思っていた人から優しい言葉をかけてもらったりすると、
もう突然に、「私ほど幸せな人はいない」と思うでしょう。
その場合に、昨日まで起きたことは昨日の段階ですべて「不幸」であったのに、
今日「幸せ」になったがゆえに、昨日までのすべての「不幸」も、
みな「幸せ」になってしまう・・・。
オセロゲームに、とてもよく似ています。
「幸」と「不幸」は、オセロゲームのように、
白と黒がすぐにひっくり返るのです。
つまり、「幸」も「不幸」も、絶対的なものではないということになります。
「私」の”気分”が一つの現象を「幸」にも「不幸」にもしてしまう。
今日「幸せ」と思えたら、その「幸せ」まで連れてきてくれた
自分自身の過去に、感謝できるような気がします。
ですから、つらく悲しい思いをした過去の出来事を、
一つひとつ過去に戻って乗り越えたり克服したりする必要はないようです。
「今日」を「幸せ」と思えれば、今まで”黒”が並んでいた盤面が、
すべて”白”にひっくり返ります。
逆に、「今日」を「不幸」と考えたなら、それまで”白”が並んでいたものが、
一挙に”黒”にひっくり返ってしまいます。
「幸せ」とは、「幸せ」という現象があるわけではありません。
そう”思う”心が存在するだけ。
どんな現象も、その人がどう思うかによって、”色”がつく。
色が決まってくるのです。
般若心経の中に「色即是空(しきそくぜくう)」という有名な言葉があります。
「色」とは目に見えるもの、形あるもの、物体、肉体のこと。
狭い意味では「肉体」を指し、それが、
「色情」「色欲」などの言葉を生みました。
「色」は、「五蘊(ごうん)」の中の一つ。
「五蘊」とは「色」「受」「想」「行」「識」の五つを言います。
人間の感覚レベルのこと。
「すべては空」なのに、なにかを論評したとき、分析したとき、
評価を与えられたとき、私たちは「その現象を性格づけした」
という状況になっているのかもしれません。
その”論評”や”分析”、”評価”はすべて”空”である、と
お釈迦様は言いたかったのではないでしょうか。
”空”とは、「ないこと」ではなく「中立である」、
「色がない」ということではなかったのでしょうか。
「暑い」「寒い」、「遠い」「近い」など、
私たちは何気なく「論評する」「評価する」言葉を使っています。
それらはもともと実体がない。
同様に、「つらい」のも「楽しい」のも、「悲しみ」「喜び」も、
”実体”として存在するわけではありません。
「思う心」だけではないのか。
もともとは「中立」で、淡々とした事実として、
ある出来事が存在するだけです。
それ(”空”なること)に対して、「つらい」とか「楽しい」とかの論評、
評価を与えている(”色”をつけている)のが「私」。未熟な「私」。
「空」を「無」として解釈し、「何もないこと」とする立場がありますが、
般若心経の中には、「空」の文字とともに「無」の文字も使われています。
つまり、「空」と「無」とは明らかに違うものとして扱われているのです。
ですから、「空」は「無」ではないでしょう。
絶対的な現象があるわけではない。
”中立”の世界で、それを「悲しい」や「うれしい」ととらえるのが「私」なのです。
その”中立”を「うれしい」「楽しい」ととらえれば、
「今日」以降はすべて「幸せ」になる。
すると、「昨日」までもすべて「幸せ」になる・・・。
余計な説明も感想もいりませんね。
幸せな人生を生きたいと思ったら、
たった今「幸せ」だと思いましょう。
もちろん私は毎日思って、毎日言っています。
「あぁ〜幸せ」
このブログを書きはじめるまでは、
学校の作文ぐらいでしか文章を書いてこなかったので、
「どうやったら論理的な文章が書けるのか?」をわかっていなかった。
「起承転結って、どうやって作るんやったっけ?」
それでも手探りで書き続けている内に、
自分のパターンみたいなものができてきました。
ブログを書きはじめてもうすぐ7年。
「継続は力なり」ですね。
私の場合、物事を説明する文章を書きはじめると、
疑問を投げかけて→例を出してみて→それに答えて
→また別の視点からの疑問が出て→それに答えつつ最後にオチ、
のような構成に自然に落ち着きます。
そうすると、それぞれのブロックをつなぐ接続詞が必要になる。
接続詞は便利なんだけど、それが増えるとどうにも文章がくどくなる。
なるべくなら省いていきたい、でも省けない。
そういう自分のパターンから抜けたい、けど抜けられない。
ブログの場合は、接続詞の代わりに行間を空けることで
なんとなく空気を変えられるのが便利なのですが、
それを多様しすぎるのもちょっとなぁと思いつつ、
便利さに甘えて結構使ってしまいます。
「今回のは(も)ちょっとくどいな」
ウチの奥さんからも時々ダメ出しをいただきます。
偶然にも、少し前にご紹介した
『哲学な日々 考えさせない時代に抗して(野矢茂樹 著)』の中に、
「論理的に書くために」という章がありました。
こういう指針があると助かります。
いやぁ〜、本当にありがたい。
ちょっと長い引用になりますが、
論理的な文章の書き方に興味がある方は読んでみてください。
文と文が互いに呼応しあい、
連関しあってひとつの文章全体が形作られる。
まさにそれが、「論理的な文章」にほかならない。
ひとつの話題をめぐって書きたいことをただ連ねていくだけでは、
けっして読ませる文章にも論理的な文章にもならない。
表向きには主張が並べられているだけに見えても、
背後にはその主張を導く問いかけがある。
そして、それが問いと答えの連鎖として、
ひとつの主張が次の主張の問いを用意するようにして、
つながりあっていくのでなければならない。
ー中略ー
そこで、論理的な文章を書くための、
実践的なアドバイスをひとつしておこう。
論理的に書く基本、それは接続詞にある。
よりきちんと言えば、接続助詞なども含めた
さまざまな接続表現をきっちり使いこなすことである。
ここまで私は、論理的に書くためのひとつの基本的な指針として、
問いを読者に共有させること、というアドバイスを与えてきた。
何ごとかを主張するには、まず問いを呼び起こさなければならない。
その、問いに対する応答のサインが、接続表現なのである。
例えば、「つまり」と私が書き出したとしよう。
なぜ私はここで「つまり」と書いたのか。
それは、直前の文に対して、
読者が「どういうこと?」という問いを抱くと予想したからである。
私は「問いに対する応答のサインが接続表現なのだ」と書いた。
そして、それがいささか分かりにくい表現であることを自覚した。
読者は説明を求めてくるだろう。
そこで、「つまり」と説明を始める。
いまの場合、私はより具体的に説明した方が
よいと考えたので、「例えば」と始めたわけだ。
あるいはまた、「なぜ?」という問いが
生じると考えられる場合には、「なぜなら」と続けよう。
「そうするとどうなるのか」と問われるならば、「だから」と応じる。
誤解されそうだと思ったら、「ただし」と補足し、
「ふんふん、それで?」と促されたならば、
「そして」とつないでもよい。
文をひとつそこに書く。それが誰かに読まれる。
読んだ人は必ずや、その文になにがしかの反応をする。
ひとつの文をそこに書きつけた者は、
読者のその反応に応答する責任がある。
ときに、予想される反応を裏切って、「しかし」と続けることもある。
裏切ることも、もちろんひとつの応答である。
このように、接続表現とは、
問いと答えのやりとりにおける、いわば「合いの手」となる。
モノローグ型の文章ほど、接続表現に乏しい。
新聞でも雑誌でも、その観点からチェックしてみていただきたい。
ー中略ー
接続表現を明確に使うこと、なぜ自分がいま
その接続表現を用いたのかに完全に自覚的になること、
それが、論理的に書くために決定的に重要となる。
日本語には論理を表現するのに十分な、
きわめてさまざまな接続表現がある。
他方、接続表現を多用した文章は美しくないとする傾向が、
これまでのわれわれにはあったように思われる。
だが、なによりもまず、初心者には
意識的に接続表現を少し多めに使うことをおすすめしたい。
そのために文章は多少ゴツゴツしてしまうかもしれない。
しかし、美しいモノローグへの自己満足からは脱却しなければならない。
しっかりと読者を見据えた、対話へと開かれた文章を書く、
それが「論理的に書く」ということにほかならない。
・・・フムフム。
論理的な文章に接続詞は不可欠。
なんや!そうやったんかいな!
やっぱり接続詞いるやん!
そう奥さんに伝えると、
「それでも、くどいのはアカンな」とバッサリ。
はい。ごもっともです。
くどい文章にならないように気をつけながら、
これからも地道にこのブログを続けていきたいと思います。
「この記事も、十分くどいな」
「・・・(汗)」